昭和43年5月15日  朝の御理解

  御理解2節「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてるということがない」
とあります、「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来る」と、しかもみてるということがない、限りがない、いやここで信心をすれば、あ~、誰でも受ける事が出来るとおっしゃるような信心とは、どういうような信心か、もう家は、もうおばあさんの代から、もう親子孫三代に渡っての信心だと、例えば言うようなお家はいくらもございますけれども、御神徳を受けておられるお家とは思われない、その御神徳が残っておるとは思われない、あの世にも持っていかれるほどの、お~、様子が見えないという家は沢山あります、ですからここでいう信心というのは、どういう信心をすれば先の世までも持ってゆかれ子孫にも残るような神徳を受けられるかという、その、信心を検討しなければならないことになりますね、金光様のこうやってお参りをしておれば、誰しもが、あ~、御神徳を受けられるということじゃない、ここで信心すればとおっしゃるのはこれはもういよいよ、本当の、いわゆる真の信心をすればということなんですね、真の信心をさしてもらえばそれは誰でも受けられるのである、ただ参っとります拝んでおりますと、もう何年信心しよりますというような信心ではいけない、ね、ですからここんところに、いわゆるお~、教祖が、教えておられる、また教祖が開かれた、この金光教の信心というのが、ね、う~ん、どういうようなものであるかということを一つお互いが分からして頂かなければならんのです、ね。
  第一に、天地の御恩徳を私共の知らなかった、ね、え~、面を非常に細やかに説き明かしておられます、いわゆる天地の大恩です、ですからまず何と言うても、その天地の大恩を知らなければいけません、ね、そりゃもう天地の恩恵無しには生きられないことは、誰しも分かっておることであり、信心がなくても、天地の大恩恵というものには、感謝せんならんものだということは分かっておる、ね、ですから、その、お~、言わば神恩報謝の生活という、その内容である、天地の御恩徳なしには、自分達が生きられないことが分かる、そんならその天地の大恩にどういうような思いを持って、え~生活さしてもらうかという、神恩報謝の生活さしてもらうかと、ですから分かっておるのではなくて、神恩報謝のあり方がそのままお道の信心の、お~、中心をなすものなのだ、ね、神恩報謝の生活をさして頂くということ、先日十三日会の時に、あの「信心とは」というような、あ~まあテーマでそれぞれその自分がかく確信しておるということころをそれぞれにお話しになりました、二十四名か五名かの方が話されました、ね、もう見事にその金光様のご信心をそれぞれの角度からキャッチして、本当にそれに取り組んでおられる人達ばっかりの、お~、表現であるからなおさらそれは有り難いものに響いてきたんですね、その中にあの、北野の関さんが、あの表現しておられます中にね、「日々お生かしのおかげを頂いておるということ」ね、「生かされて生きておるということ」ね、それが非常にこう、感動的になっていく、ね、「今日もおかげで目が覚めた」「今日も一日元気で御用が出けた」という事に対してですね、大変な、言わば感動を持っておられる、その感動がお昼参りという形に現れてき、または、あ~、御用に現れてき、その御用の内容も、お~神様への御用、または、ご自身のお仕事の上にもそれが現れて来る、きておる、ね、「信心とはそういうようなことを分からせて頂くものだ」という風にお話しなりましたですね、ね、これなどは、その天地の御恩徳、御恩恵というものをもう、自分の体で受け止めておられる、頭で分かるのじゃない、ね、それがその感動にまでこう高められておる、「目が覚めたことが有り難い」「あぁもうまた目が覚めた、今日もまた働かならん」といったようなものではなくてね、目が覚めたということに対する、喜びがまず湧いてくる、しかもそれが、ね、次ぎの、こうして朝のお参りなるわけですけれども、朝のお参りというその形になって現れておる、次にはもう誰も誰も知らんのだけれども、神様だけがご承知の世界に頂かれる御用というものが、もうそうしなければおられないものに高められてきておる、日頃頂いておる信心のみ教えというものを、ね、お商売ならお商売の上に、あのパーマ屋さんですから、あのお客さんの上にそれが現されていく、ですからその神恩報謝の生活というのはですね、それがうんならこれで良いということじゃない、最後にございますようにね、「みてるということがない」とおっしゃるその御神徳に触れていくためには、こも思いがもう限りなくもっともっと高度なものになっていかなければならないことなんです、ね、神様のこういうようなお働きの中に生かされて生きておる私共、ね、それに対し奉るところの御礼の心というものが、喜びの心というものが、ね、そこに私は家庭構成の上にですね、社会構成の上にです、ね、私はそれが生き生きと現れておらなかったら、あんたが神恩報謝の、いや天地の御恩徳が分かっとるとは言えないことになるのです、ね、だから言わば、家庭の上にでも円満な、あ~「信心は家庭に不和のなきがもと」とおっしゃるが、もう本当にその円満にいかなければおられない、そこのところがいよいよ高められてまいりまして、ていくような信心にですね、言わば、尽きぬ御神徳が頂けれる、そういうものであることが、あの世までも持ってゆかれ、そしてこの世にも残しておけるのである。
  金光様の御信心はまず何と言うても、天地の御恩恵、いわゆる御恩徳というものをね、それを知るんではなくて悟らしてもらう、ね、そこから天地に対するところの神恩報謝の生活が出来る、その神恩報謝の生活が、ね、やむにやまれん様々な姿、形に現れてくる、ね、いわゆる人間の生きていく生き調子の上にも、その神恩報謝の心が現れてくる、ね。
  うんなら、その例えば関さんが言われるように、自分もそういう風になりたいと思う、ところが思うただけではならんから不思議なんです、やっぱああいう風になれるのは特別な、あ~、ああいうすぐこう迷いやすい人、じゃなからなきゃ出来んのじゃなかろうか、ね、そういうことは決してない、ね、天地の御恩徳を分からして頂いて、その天地の御恩徳に、を、本当にこの肌で感ずると言うかね、体で感ずる、ね、心に芯から「神様のおかげを頂かなければ立ち行かん」ね、御理解、次ぎの御理解三節の、最後のところにありますように、「氏子あっての神、神あっての氏子」とおっしゃるが、これは神様の表現であってね、ここんところが分かってくると、今度は氏子あっての神ではなくてね、神様あっての氏子ということになる、もう神様がなからなければね、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私達だということになる、これは神様が表現しておられますから、「氏子あっての神、神あっての氏子」とこうおっしゃるけれども、ね、だんだん分からせて頂けば頂くほどもう神様なしには動かれん、ここ一寸が、それをうんなら平気で動いておるというところに、もう第一間違いがあるのですよ、いや自分の力でなしておる、自分の力でこう思うておるという、その、出けておるというような思い方の中に、もうこれが後でだんだん分かってくるようにね、御理解第三節によって分かってくるように、いよいよ見当違いの生活をするわけなんです、いわゆる我情我欲の生活に入るのです、ね、天地の御恩徳が分かったらです、その検討がですね、正確なところに焦点がおかれるようになる、ね、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、神様無しには生きられない、野菜一本作らして頂くでも、もうおなたのおかげを頂かなければ出来んとですから、ね、そこに神様が、「氏子があって種を蒔いてくれ、ね、肥料を施してくれ、草を取ってくれ、だからこのような見事な野菜が出来るのじゃ」とこう神様が、「いいえいいえとてもとても、いかに私共が種を蒔きましても、いかに肥料をほどこしましても、畳の上に花が咲いたり、野菜が出来たりすることはございません、大地の御恩徳に寄らなければ出来ることではない、ただ私共はそういう御用を、当たり前の事として肥料を施し、または草を取り、水をかけたりしておるだけのことでございます」ただ私共は御用をさして頂いておるだけのこと、ね、この花を咲かして下さるのは、この見事な野菜を作って下さるのは神様、ね、神様無しには出来んのだと、ね、そういうところが本当に分かってくるからです、ね、もう日に目が覚めた事その事がすでに有り難いのである、ね。
  「氏子あっての神、神あっての氏子」ではなくてね、神様あっての私共、いや神様あっての氏子である、ね、その神様を今まで信心のない間は蔑ろにしとった、いや天地の御恩恵なんかっていうことはただ知っておった常識的に、天地の御恩恵がなからなければ一切な、枯れ果ててしまうのだ、ね、天地が枯れたようになってしまうのだ、そこにはもう草一本生えないようになるのだ、天地の御恩恵がなかったら、ね、そのことが理屈の上で分かったからだけではいけんのだ、ね、その天地の御恩恵をこの心に自分の、言わば肌で感じれれるところのおかげ、いわゆるだから暑いの寒いもまたおかげである、降る事も照る事もおかげであると分かるのである、ね、そこでなんだ、話しを聞けばすぐ分かるのだけれども、それを本当に分からして頂くために私今日の御理解を頂いて頂きたいと思うのですよ、ね。
  どんな信心がわかっ、昨日、その、十三日会の時に、い~どなたの発表でしたかね、え~、自己を見つめる事、いよいよ自分自身が分かっていくことが信心だと、このことなんかも素晴らしいことだと思うですね、自分自身が、人じゃない、自分自身が分かっていくこと、ね、子供が言う事を聞かん、主人が自分の思うようにならん、家内が自分の思うようにならん、まるきり子供のせいにしたり主人のせいにしたりしておる、ね、自分自身の分かってないことは一つも見よらん、棚に上げてしまって、信心とは人を見るのじゃない自分自身を本気で見極めていくとなるほど子供が言う事を聞かんはずだという内容にぶつかる、自分という者を、もう見極める事が信心とは、という風に発表されましたですね、これなんかはもう素晴らしい見当、見当にいわゆる、その、より見当違いということを言うのは、見当違いただいっ、間違いのない考え方なんですね、私共がですね、例えばそれを主人のせいにしたり子供のせいにしたり、家内のせいにしたり、することはね、これはもういよいよ見当違いなんですよ、ね、昨日福岡から初めてお導きを頂いて参ってきた方が、え~、もう若い時から後家で娘さんを一人育てた、それでそれを大変良いお家に、え~、結婚、(?)にもろうてもろうた、大変初めの間は幸せにいっておった、もうそぉ、クリスっ、向こうはクリスチャンです、もう非常に向こうは親子さんを大事にされる、もう実に、それが親子さんを大事にされる、あのくらい親を大事にされるなら、自分も大事にされるものだと思うてやった、親を大事に、ところがもう自分の親だけはもう大事にされるけれども、今度はもう、う~ん、嫁さんの場合、昨日参ってみえたお母さんにはもう非常に冷たい、近所だからその娘さんがね、行かれるとですね、「お前は行ってから御飯食べてきたならば必ずその御飯代を向こうにおいてこい」っち言う、里の方へ、「そりゃああんた里の方じゃけんそんなことせんでん」「そげなことじゃいかんおいてこい」っち、「そげなん冷たかこと言わんでん」っち言うてまあ言いなさるわけなんですね、まあもうとにかく一時が万事にその向こうのお母さんやらお父さんにされるごと親切ではなくて、自分には非常に冷たいとこう、もう親んかて八十になられるおばあさんを兄さんがでっきとしておられるのにお母さんが自分のところが良いと言われるので、二十年間みてこられた、現在もそげんみておられる、ね、そして最近はです、そのお~親に不平不足を言われ、その子供にはそういうように冷たくされ、「もう私のたつせいがない、私は二十年間五経を通してです、本当に一生懸命に親のためにと娘のために、何のために働いてきたか分からん」と言うて、も~う細々と話されますからね、私があの「ここではね、あの、そう詳しくあの言われんでも、あなたが今日は、どうしたら良いかとどげんしたら良いかいかにしたら良いかということをお伺いされるのならば、それだけで良いんですよ」って、「いいやいくら神様でもやっぱ聞いてもらわにゃ分からんから」っち言うてから話されるとです、話しを聞けば聞くほどになるほど常識的な考え方で言うならば立派な生き方をしてきてあるとです、「ところがうんならここにね、あなたがそういう立派な生き方をされた結果が今日でしょうが」て、「とそれとね信心で私が言うとです、あなたの生き方は立派な生き方じゃなかったということになるのですよ」て、ね、「あなたがそういう二十年間立派な子供に対して親に対して立派に生き方をなさってきたが、ね、その、あんたがそのお母さんと言うのも、是非嫁さん達夫婦に話して、嫁さん達にみてもらうようにしなさい、娘は向こうにやったのだから、あんたがその娘から、大事にしてもらわなんということは思うことを止めなさい」っち私、「うんなら私一人ぼっちになってからいよいよ寂しゅなる」と言うわけなんです、ね、けれどもねここでは私の言う事聞かんとおかげにはならん、ね、言わばあなたが二十年間非常にまあ道徳的なと言うかね、収容と言った意味合いでは収容もしてこられた道徳的な生き方もされた、誰が聞いてもあんたが立派であること、それにどうして娘さんがそう背かれるか、お母さんが不平不足を言われるか、本当に不思議なごとあるけれども、ね、信心で言うとあなたが言わば、結果が今日の難儀であるから、ね、結果から言うと、あんたの生き方が本当ではなかったのだから、これから本当な事になれば親にも背かれない子供にも親切にしてもらえれる道が開けてくるためには私の言う事を聞かにゃいかん、ここは病人でもですね、「はあもう医者がこげん言いなさるあげん言いなさる私は何という病気です」と言うて私は病名を聞かんでも良い、問題はおかげさへ頂きゃ良いとでしょうが、ね、例えて医者にかかりますよ病人が、ね、とすると医者がね「あんたの病気は安静にしとかなければいかん」と言うなら安静にしなければならん「あれを食べちゃいかんこれを飲んじゃいかん」と言うならそれもやっぱり実行しなければならないように、ね、いつもかつも食べちゃならん、飲んじゃならんというのじゃないですよと、全快すりゃ飲まれる、食べもされる、ようにです、現在あなたは病気で言うなら重体なんだ、ねだから私が言う通りしなければ全快のおかげにならん、ね、今までの生き方はあんた生き方が間違うておった、だからこれからはね、言わば私の言うのは、超常識的、超常識なんだ、信心の道というのはそういうもんなんだ、ね、だからあんたの生き方で良かったならこのまま続けていきなさいだけれども、まだやっていけると思うならもうここにお伺いにくることはいらん、自分でまだ少しやってみれば良い、けれどももういよいよいけんと言うて両手を上げて言うならここにみえておるのであるから、無条件に私の言う事を聞かなければね、「「ああたそげんなさるばってん飲みます食べます」と言うたんじゃいつまでも病気は治らんよと、だから娘さんにはこういう生き方をしなさい、言わばお母さんにはこういうあり方にこれからなりなさい」と言うてまあ色々あの具体的なこと話したんですね、いわゆるその、これは見当違いの二十年間を、であったということになります、そこで見当違いであったことをここで清算して、ね、見当違いであったことを、神っ、天地に対してお詫びをさして頂いて、これからは一つ間違いのない生き方をさして頂くという生き方になることが信心なんだ、ね。
  そういう意味合いでですね、見当、信心をしておっても見当違いの生き方、見当違いの思い方をしておるのが沢山あります、ね、これではここに教祖がおっしゃられるところの信心にはならんのです、ね、これは御理解第三節を頂くとそれが分かるのです、ね、「天地の事に対して、言わば見当違いなことばかりをして前々のめぐり難を受けおる」と言うておられる、ね、そこで「願う氏子におかげを授け」ね、「理解申して聞かせ、上下立つようにもいたす、神も助かり氏子も立ち行くその道も開く」ね、「氏子あっての神、神あっての氏子ぞ」という風にこうお説きになっておられます、ね、ですから私共がまず天地の御恩徳を分からしてもろうたら、それを身、自分の身、自分の心でですね、それを肌で感じれれるところまでおかげを頂くためにです、私共が見当違いの生き方思い方というもをまず改めなければいけんのです、ね、ここはもう例を言うなら限りがないですもんね、普通の一家、そこは日頃稽古して、しておれば分かる事、自分の思うておる事やしておる事が見当違いの事ではなかろうか、お金が貯まっていきよりさえすればもう見当違いじゃないごと思いよる、言わばけれども見当違いなところ、見当違いな事をしながら、言うならお金は貯まっていきよるとじゃから、これがあの世にも持っていけるはずもなからなければこの世に残していけれるはずもない、いや良し残されたところで、子供がその残された、財産で難儀をすることはもう(ひごめり?)よりも明らか、それを平気で残していきよる、ね、御神徳というものを残さない、ね、いよいよ自分が分かってくる、ね、自分が分かってくると、自分のような言うなら浅ましい、自分のような汚い、本当にもう本当に我屑の子であるというような自覚に立つことが出来る、ね、けれどもよくよくここんところを考えてみますとですね、どんなに汚い心であっても浅ましい心であってもね、それは自分の心の本心じゃないということ、ね、それはめぐりだということ、汚い心も浅ましい心も、だから自分自身はやはり神の氏子としての立派なものだということ、ね、ただそれにめぐりが付いておるから、そのめぐりが浅ましいのであり、めぐりが汚いのであり、めぐりが欲の塊のようになっておるだけなのだ、だからこのめぐりさへお取り払いを頂けばです、もう後に残るものは、ね、神様から頂いておる、もうそのままの、いわゆる人間本来の姿、本当の氏子としての、素晴らしさというものが、お互いの心の中にはあるのだと、だから私は浅ましいものじゃなくて、めぐりが浅ましいのですよ、私は立派者、神様と同じ事じゃ、ね、それを信心さして頂きよってその自分のその汚いものがです、めぐりがですね、外れていくにしたがって、関さんの例を取るならです、ね、言わば、生かされて生きておることが、感動的に有り難くなってこられたわけなんですよ、だからめぐりがあるとです、分かっておってもです、天地の御恩徳ということが分かっておってもです、その天地の御恩徳を心から有り難いと思うことが出来んのです、ね、そこに改まりが必要だということになるわけでしょうね、めぐりのお取り払いということに本気にならなきゃいかんということが分かるでしょうが、ね、んでめぐりのお取り払いを頂くために、例えばね、例えばあの還元の生活に入るとか、ね、または今までの見当違いである、見当違いが前々のめぐりで難を受けおるということになっておるのであるから、これからは見当違いの生き方じゃない、思い方ではない、ね、そういう生き方にならせて頂くという事によってめぐりが外れてくるんです、または難儀が起きてくるならば、その難儀そのものがまあめぐりのお取り払いであるから、それを「やれ痛や今みかげを」という心になっていけばめぐりが外れていく、めぐりが外れていくにしたがって人間本来の姿というものが現れてくるから、この心を持ってですね、聞いたり見たりしますとですね、もう絶対天地のこの感動が伝わってくる、天地の御恩恵が分かれば分かるほど、有り難い勿体無いという生活が出来るのです、このめぐりがあるから、有り難いと思わんならんばってん有り難いと思われんめぐりのせいで、今日はここんところを分かって頂きたい、ね、自分の心の、何ち言う自分は汚い人間じゃろうか、自分が汚いのじゃない、自分はもう神様と同じ、けれども、これは自分に付いとるそのめぐりがこすいのであり汚いのであり、浅ましいのである、ね、だからこのめぐりのお取り払いを頂くために、「信心は日々の改まりが第一」というところに焦点をおいてです、行くことと同時に、どういうようにすればこのめぐりがお取り払いを頂けるかと言うと、いわゆる、ね、還元の生活の、に入ることでもあると同時にです、見当違いの生き方をせんですむ私になることなんだ、ね、その何時まで経っても信心しよっても見当違いの生き方をしたんではめぐりは何時までも放れんのですよ、ですから天地の御恩徳を千辺万辺聞いても、言わば分かる事は分かるけれども、それが感動になって現れてこない、ね。
  今日はそこんところを皆さん、分かって頂きたい、ね、御理解第二節、「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ」と、この神徳をね私共はあの世に持っていかなければ、あの世での生活がね、もう本当にもうそれこそ浅ましい事になるのです、ね、言うならばこの世でいよいよ有り難い、真に有り難いという心を開いて行かずして、あの世には何にも持って行くものないです、持っていけるものは真に有り難いというものだけなんだ、しかもこの世にもそれが残しておけるとおっしゃる、ね、「神徳は信心をすれば誰でも受けることが出来る」とおっしゃる、けれどもそれがですね誰でも受けておられないところを見ると、ここに教祖がおっしゃる信心とはならどういう信心か、金光様の信心とはどういうものかと、ということをまず知り、まずそこを把握して、金光様の御信心とは、ね、まず第一に天地の御恩徳を分かる事だと、その天地の御恩徳に対し奉って、神恩報謝の生活が出来るようになることだと分かる、分かるけれどもそんなら、神恩報謝の生活がなかなか出来ん、出来んのは何かと言うと、めぐりのせいだと、(?)、ね、めぐりが有り難いものを吸収してしまう、本当な事を分からせまいとする、そこでめぐりのお取り払いを頂くためには、一番有り難いお取り払いを頂くためには、私共が、言わば、もう間違いのない思い方考え方、ね、見当違いの、生き方をこれから続けておったんでは何時まで経ってもめぐりは放れない、二十年間道徳的にいうければ立派な生き方をして、「あなたがどうしてそげなん不幸せなりなさるじゃろうか」と皆が不思議がるように、立派な生き方をしとるのだけれども、事実は親から不平不足を言われ、子供から冷たく放れられていくというような結果になっておるではないか、してみると、その結果から言うと、あなたの二十年間というものは、本当の生き方ではなかった、見当違いの生き方をしておられたんだ、それを本当の事のように思い込んでおられたところに間違いがあったんだ、さあ今日から只今からは、見当違いではない生き方、それは今日只今私が教えるから、こういう生き方で行きなさい、ね、それは丁度重体の病人が、「これを食べちゃいかんこれは飲んじゃいかん」と言われるならばです、それを実行する以外にはないように、私の言う事は窮屈だろうけれども実行しなさい、ね、そこから健全な、例えば、あ~、病気が言わば全快のおかげを頂くとです、またそれから何を頂いても良いように自由な世界が生まれてくるんだと、ね、という風に私は昨日その方に告げましたようにですね、しかも誰でも受けられる、受ける事が出来る、しかもねみてるということがない、だから関さんの例を取るならです、関さんが現在のところでも、目が覚めること、たことが有り難い、日々が神恩報謝の生活、信心の感動喜びを持ってそれをなして行くことが出来ると言うておられる、これがねもっともっと限りないおかげを頂かれることのために御神徳を受けていかれることのために、もっともっと見当違いの生き方ではない、本当の生き方をですね、求めて行かなければならない、そこからいよいよ限りのないみてることのない、御神徳がいよいよ頂かれるということになるのです、ね。
  どうぞ一つおかげを頂きましてですね、『「信心をすれば誰でも受けることが出来る」とおっしゃる信心とはどういう信心か』と、ということを今日皆さんに聞いてもらったんですね。                                                           どうぞ。